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弘仁2年(811年)弘法大師ご留錫(りゅうしゃく)あり。 当山は気比神宮の奥の院として、伽藍十二坊を有し、本尊、袴掛観音(はかまかけかんのん)は縁結びの観音として霊験あらたかであった。この金前寺こそ、南北朝の延元に入るや、北国の鎮護(ちんご)として下向し給うた後醍醐天皇の皇子恒良親王(つねながしんのう)、及び尊良親王(たかながしんのう)を迎え奉って、気比社の祠官気比氏治(けひうじはる)氏以下いくたの忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)の士が足利の軍をひきうけて一大決戦の本営となったが、武運つたなく足利軍に破れた。 (現在金ヶ崎宮の地) 以後、寛文2年(1662年)安孫子浄泉(あびこじょうせん)打宅宗貞(うたむねさだ)等が現在地に観音堂を再建し、鎮護国家・済世利人の祈願寺として法灯相続せしも、昭和20年7月12日夜、米国空軍による爆撃により堂宇(どうう)、寺宝の一切を焼失灰塵と化した。 位牌段に安置してある十一面観音の立像は、当時金前寺の末寺であった気比蔵寺の本尊で、戦時中は美浜町の園林寺(おんりんじ)に疎開されており、幸にも空爆からまぬがれた。終戦直後昭和21年4月より本堂再建に着手しその年に本尊を迎えた。 その後は昭和27年、37年に本堂の修復増築工事。平成元年には現在の本堂、庫裡を再建する |
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