|  
        延元元年(1336年)10月、新田義貞は金ヶ崎に城を築き、翌2年3月6日、足利尊氏の軍に攻められて敗走し、 
      後醍醐天皇の皇太子恒良親王は後に捉われ、皇子尊良親王及び、新田義顕(義貞の長男)は、金前寺の観音堂に 
      て自害される。 
       
       この戦いに敗れる際、義貞は陣鐘を海に沈めた。そののち国守が海女に命じて探させたが、鐘の竜頭がさかさ 
      まに落ち込んで泥に埋まり、引き揚げることができなかった。と云われている。 
       
       人生のほぼ半ばを旅で過ごした芭蕉は元禄2年(1689年)8月14日夕、等栽と敦賀に入り、唐人橋の出雲屋弥市 
      郎方に泊まり夕食後、気比神宮に参拝、翌15日雨の中を天屋玄流らに案内されて金前寺を訪れた。そして延元の 
      戦い、陣鐘の物語りを聞いて詠んだのが 
      
      
       
      月いづこ 鐘は沈るうみのそこ はせを である。 
      
      
       この句碑(鐘塚)は、宝暦11年(1761年)に敦賀の俳人、白崎琴路らが芭蕉の没後68年目に建立した。芭蕉の 
      真筆を刻んだと伝えられているが、この真筆は不明。鐘塚は県内に残る句碑の中で最も古い。 
       
       |